当教会の「十字架の道行き」の謎

上に3つの国で作られた「十字架の道行き」を並べてみた。筆者は生まれてすぐから母に連れられてこの聖堂に出入りしていたので、勿論、元町教会の十字架の道行きに慣れ親しんでいた。だからこれが当たり前だと思っていた。イエス様に対して直接手を下しているのはユダヤ人の民兵のような人達で、当然こんなユダヤ人はけしからんと思っていた。ただ、一つだけ不思議に思ったのが第3留である。何か変だった。私は神父様に聞いた「何故イエス様に大変な事が起こっているのに、兜をかぶった二人のおじさんは無視して通り過ぎていくのですか?」  幼少から見慣れていたにもかかわらず、これだけは不協和音を感じた。その時の神父様の答えはあいにく覚えていないが、その疑問が解消したわけでは無かったようで、その後も変に思い続けていた。

大人になって海外旅行にも行くようになり、外国の十字架の道行きを見るようになって、元町教会の十字架の道行きの特殊さに気付くようになった。
上の3つの道行きを見比べてもらいたい。ポーランド製もフランス製も直接イエスに手を下しているのはローマ兵である。それに対して元町教会のイタリア製のはユダヤ人であり、ローマ人が登場するのは第1留、第3留、第12留の3カ所のみだ。しかもそこでローマ人がやっていることは次の通りだ。

  ・第1留ではピラトが「この人の血について、わたしには責任が無い」と言って手を洗っている場面。 狭い場所にかなり無理をして挿入してある。
  ・第3留の二人のローマ兵士はイエスをいたぶる事について、私達は無関係ですとばかりにそっぽを向いて去って行こうとしている。これも狭い場所にかなり無理をして挿入してある。
  ・第12留では百人隊長が「まことにこの人は神の子であった」と言った場面。

つまりどれも、ローマ人は直接手を下していませんよ、いやむしろ百人隊長のようにイエスを讃えていますよ、と言わんがためのローマ人の登場なのだ。何故国によってこんなに違うのだろう。
これについては、この像達が1922年のイタリアで作られた事を考えると謎が解けてくる。
1965年のパウロ6世のもとでの第二回バチカン公会議での声明「イエスを殺したのはユダヤ人ではない」まで、カトリック教会のユダヤ人に対する態度は公式には、「呪われた民」「キリストの下手人」であった。(これに関する詳細は下の記述をご覧下さい。現在のローマ教会は反省しています。)
だから、これ以前に作られた「十字架の道行き」の中には露骨にユダヤ人を悪者として登場させる物もあった。これは国により地域により、また、治めていた司教の考えによって様々であったと思われるが、イタリア製の「十字架の道行き」となると圧倒的に「ユダヤ人を下手人としたもの」が多かったと思われる。でなければローマ兵を前面に出さねばならず、キリスト教を最初に国教としたイタリアではそれは避けたかっただろう。

教会の飾り物ぐらいどうでも・・・という方もいらっしゃると思うが、実は昔のヨーロッパは識字率が低く教育は教会の聖像や十字架の道行きやステンドグラス等の具体的な造形を教材として行われていた。学校制度が登場する16世紀後半迄は、徒弟制度による職業教育を除くと、教会での宗教教育が教育の中心であったから教会内部の飾り物は大変に重要な教材だったのだ。(事実、頻繁にそれらを見ていた私自身も、「ユダヤ人はけしからん」といつの間にか思い込んでいた。)

「十字架の道行き」等による反ユダヤ教育もあって、ローマ教会成立以降のユダヤ人に対する迫害は大変に悲惨な事態をもたらした。かつてベストセラーとなったドキュメンタリー「謎の十字架」(トマス・ホーヴィング著)等でも十字架の背後に横たわるユダヤ人迫害の歴史が重要な通奏低音となっていたのを思い出す。
現代の私達は過去の過ちに目を向ける一つの教材として、当教会の「十字架の道行き」を見る事に留意すべきであろう。


※カトリックのユダヤ人への見解
1965年にパウロ6世のもとで第二回バチカン公会議が開かれ、ユダヤ人がキリスト殺しであるとの嫌疑は取り下げられた。実にこのときに至るまでユダヤ人はカトリックにとって「呪われた民」であった。その嫌疑の発端は5世紀にまでさかのぼり、聖アウグスチヌスによるユダヤ人はキリストを殺したがために彷徨う運命となった、との教義が連綿と信じられていた。この会議以降嫌疑は取り下げられたが実際に行動として現れることはなかった。

2000年3月、ローマ教皇としてヨハネ・パウロ2世がイスラエルを訪れる。ヨハネ・パウロ2世はユダヤ人が約束の地に戻る権利に言及した最初の法王であり、反ユダヤ主義を神に対する罪とし、神とユダヤ人との契約が今も有効であると明言した最初の教皇でもある。この姿勢には第二次大戦当時パウロ2世自身がナチスに抗して反対運動を行っていたこともあるが、ポーランド出身であったことも大きな要因であろう。大戦前、ポーランドには300万人のユダヤ人が住んでいた。当時の人口の1割を占めており、若かったパウロ2世もユダヤ人の迫害される様を目の当たりにしている。実際にイスラエルに訪れた際には小学校時代の同級生であったユダヤ人との再会を果たしている。
そしてこの滞在中、パウロ2世は「多くのキリスト教徒がユダヤ人に向けてきた憎悪は痛ましい歴史の事実」と認めた。

2008年 教皇ベネディクト16世が著書「ナザレのイエス」の中で、「イエスを十字架にかけたのはユダヤ人ではない」と名言している。ons@0bc2kh0",function($,jQuery,require,module){mw.user.options.set({"variant":"ja"});});mw.loader.implement("user.tokens@1dqfd7l",function ( $, jQuery, require, module ) { mw.user.tokens.set({
  1. 『ナザレのイエスII: 十字架と復活』(



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十字架刑について(その仕組み)


十字架刑というのは大変に残酷な刑で、出来るだけ長時間苦しませる事を目的としている。
それをリアルに伝えているのが、マルコによる福音である。第15章に書いてある事から抜粋してみよう。

第25節 イエスを十字架につけたのは午前9時であった。
第33節 昼の12時になると、全地は暗くなり、それが3時まで続いた。
第34節 3時にイエスは大声で叫ばれた。・・・「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」・・・
第37節 しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。
第42節 既に夕方になった。
第43節 アリマタヤのヨセフは思い切ってピラトのところへ行きイエスのからだの下げ渡しを願った。・・・
第44節 ピラトは、イエスがもう死んだのかと驚いて、百人隊長を呼び出し、イエスが既に死んでしまったかどうかを問いただした。

上記から分かるように、イエスの場合は磔にされてから6時間ほどで亡くなっているが、一般的には9時間でも短かったようだ。上記の「夕方」がいつ頃かははっきりしないが、仮に午後6時とすると、磔になってから9時間。それでもピラトは「イエスがもう死んだのか」と驚いているのだ。このような長時間の苦しみの後の死因は、現在では肺の圧迫による窒息死と考えられてる。見せしめのためだから、短時間で死んでしまう事は避けなければならない。失血死は勿論論外だ。

当時の十字架刑はこの様な目的から次のように計画された。
罪人を十字架に貼り付けるため、両手両足を固定する。
身体の重みで次第に身体が下がってくるがそうすると肺が圧迫されて苦しいため足に力をいれて持ち上げる。
しかし、疲労に伴いまた身体が下がってくる。苦しいのでまた持ち上げる・・・・
この繰り返しの中で少しずつ死に至る・・・

これらを考慮すると、十字架上のイエスの姿について次のように推察される。

 ・昔の絵にあるように、手のひらに釘を打ったのでは身体の重みを支えられないので、
  「手首を縄で縛った」
  「手のひらに釘を打ち、更に補強のため手首を縄でも縛った」
  「手首の動脈を傷つけないように、手首にある2本の太い骨の間に釘を打った。」

 ・同様、足についても釘だけでは身体を支えきれないので足を載せる台があっただろう。
  事実、東方正教会で最も多く使われる十字は八端十字と呼ばれて、ちゃんと足台も付いている。
   (下の写真)

   

   勿論この足台に釘で打ち付ける事も可能ではあるが、失血死の心配もある。

 ・この刑の仕組みから、死を早めたい場合には、足の骨を折る。そうすると一気に肺が圧迫されて
  死に至る。聖書のヨハネによる福音書では次のようにある。
  「そこで兵士達が来て、イエスと一緒に十字架につけられた最初の男と、もう一人の男との足を
   折った。イエスのところに来てみると、既に死んでおられたので、その足は折らなかった。
   ・・・」 (第19章32節)


この様な事を考えると、昔から伝わってきた十字架上のイエス像については若干検討が必要かもしれませんね。でも、信仰の本質には関係が無いので必要ないかな?


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肺圧迫による、窒息死





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 国による十字架の道行きの違い(イタリア、フランス、ポーランド)
    当教会の「道行き」の謎十字架刑についての考察は下方をどうぞ




     

元町教会・イタリア製

(小原雅夫撮影)

ルルドの十字架の道行き・フランス製

(小原雅夫撮影)
ポーランドの教会

(            氏撮影)
第1留

第2留


第3留

第4留

第5留

第6留

第7留

第8留

第9留

第10留

第11留


第12留


第13留


第14留


第15留
  

第15留について
1958年、聖母御出現100周年にあたって整備されたルルドの十字架の道行きは、第15留を設け、「イエス復活する」をテーマにした。以来、 第15留を加えた十字架の道行きも行われるようになった。信心そのものは自由にイエスの受難を記念するものであるから、さまざまに応用されうる。
たとえば ヨハネ・パウロ二世教皇はローマで、聖書により忠実に、「イエスお倒れになる」や「ヴェロニカ」の代わりに、「ゲッセマニでの苦しみ」「ペトロの否認」 「回心した盗賊に天国が約束される」をテーマとした道行きを行った。


十字架の道行きの歴 史
イエスの歩いた十字架の道をたどる信心は、教会の歴史の中で早い時期から何らかの形で存在したであろう。313年のコンスタンチヌス皇帝によるキリス ト教公認後、聖地を訪問するキリスト者の増加にともない、聖週間を聖地で過ごそうとする信仰者も数を増していく。受難の追体験である。現在の十字架の道行 きの信心は、14世紀以来聖地の管理を委ねられているフランシスコ会が考案し、普及させたと言われている。
エルサレムで実際にイエスの歩いた道をたどる 「道行き」は、聖地まで行くことの出来ない大多数のキリスト者にとっては与りえない信心であったから、信仰者が自分の今居る場所でもそれぞれ「道行」をた どることが出来るように、絵画や十字架、聖像などが用いられるようになった。元来は自由にイエスの受難を黙想するものであったが、18世紀、クレメンス 12世教皇のころ現在見られる14留に定まったらしい。















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