元町教会と祭壇の説明(レタブルムの説明)



※お断り
祭壇の上方に見える沢山の彫刻群は厳密にはレタブルムと呼ばれます。昔は儀式を行う祭壇(机)とこの彫刻群が一体となっていたため、 「祭壇画」とか「祭壇彫刻」と呼んでいたのですが、第二バチカン公会議以降、儀式を行なう祭壇(机)がこれらの飾りと分離されたため、これらの飾り達をどう呼んだら良いのか混乱があります。
厳密にはレタブルムと呼びますが、日本人にはなじみが無いので、ここでは、昔からの用法に従い、レタブルムを祭壇彫刻と呼ばせて頂きます。


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 11549年、フランシスコ・ザビエルは鹿児島に上陸した。そして島津貴久、大内義隆、大友宗麟らの大名と会い、日本に初めてキリスト教を伝えた。しかしながら、彼は日本布教を弟子に託し、1551年インドのゴアに向かい、そこから中国への入国を図っている最中に病に倒れ帰天。

 日本での布教は、豊臣秀吉の指示もあって次第に困難になりつつあったが、家康もキリスト教の禁止を通達。更に、1637年の島原の乱以降徹底して取り締まられ、鎖国体制が完成すると、布教は完全にストップした。隠れキリシタンとしてひっそりと生き延びた人々も居るにはいたが、表面上キリシタンは居なくなった。

江戸末期になって諸外国が日本との国交・交易を求めてくると幕府もそれを拒めなくなり、1854年の日米和親条約を皮切りに蘭露英仏とも交流する事となる。この時、諸外国は領事や船員や商人達のために教会を建てる許可を求め実現した。キリスト教禁止の高札が撤去されたのは明治6年であるので、表向きそれまでは布教は不可能であった。

1859年パリ・ミッションから派遣されたカション神父が称名寺境内に仮聖堂を建てた事が礎となっており、この点では1862年の長崎大浦天主堂・横浜山手教会より古い事になる。(現存する教会建物としては1865年建立の長崎大浦天主堂が最古)函館は大火が多く、教会は何度も被災したため、現在の聖堂は五代目となる。




   


   この聖堂は、1921年の函館大火後、1923年に第五代目の教会として再建された。建物はゴシックスタイルで、内部の壮麗さは我が国の聖堂中希に見る素晴らしいものである。建設は当時のコンクリート建築の名工木田保造が手掛けた。  
中央祭壇、それより手前両翼にある小祭壇、壁に配置された半立体の「十字架の道行き」は、イタリアのチロル地方の手彫り木彫で、時のローマ教皇ベネディクト15世より寄贈された。           

 この当時、東北北海道地方の司教座は函館にあり、司教はベルリオーズ師であった。彼は有名な作曲家ベルリオーズの従兄弟であった。実は彼が司教の座にあった時2度の大火に見舞われ、三代目聖堂が焼けた時には長期間欧州を募金旅行して回り、四代目聖堂が焼けた時には70才という高齢をおして14ヶ月以上アメリカを募金行脚して回り現在の聖堂の完成にこぎ着けた。旅行中には重篤な病に倒れた事もあったそうである。彼は小柄だが誠実で意志が強く立派な人物であった。

 世界中には無数の教会があるが、ローマ教皇がじきじきに教会の設備を寄贈することは大変珍しく、教皇の日本への関心が大変高かった事を表していると同時に、ベルリオーズ師の頑張りに対する深い感謝の念がその背景にあったのではなかろうか。



      


  天井が青く塗ってあり、金箔の星が貼ってあるが、元々は壁同様真っ白であった。1977年頃の主任司祭であったグロード神父の発案で突然塗られた。天井のみならず、壁は全て橙色となった。
当時、急にカラフルになった壁や天井を見て多くの信者は驚いたものであるが、「神父様ったらー」の一言で済んだのはいつもにこにことフレンドリーであった神父への親愛の情があったからであろう。

 祭壇の近くに寄ってみよう。光っているところは全て金箔が貼ってあり、筆者が幼かった半世紀前と比較しても、その輝きは失われていない。全て手彫りであるが、寄贈された他の設備も含め、現在このようなもの作らせるとどれだけの費用がかかるか想像も出来ない。



           



 祭壇の左右には、上にあるようなサインが残されている。これはイタリアのチロル地方にある工房フェルディナンド・シュットゥフレッサーで作られた事を示している。亀谷隆氏がイタリア大使館に問い合わせるなどして調べたところ、イタリアのボルツァーノ市近郊のオルテイセイという町に同名の彫刻家が住んでいたそうで、彼の名が祭壇制作の工房名として使われていた事が判明した。制作にかかる日数を考えると1921年の大火後すぐに発注したのだろう。研究者の中には、出来合いの物があってそれを送ってくれたのではという見解を述べている人もいるが、祭壇がこの教会のサイズにぴったりである事と日本仕様となっている事から、大火後日本向けに制作された事は間違いないと思われる。

イタリアのチロル地方の産と聞くと民芸品を連想してしまうが、彫像・意匠をつぶさに鑑賞してみると、大変に精緻でリアルな作りで、芸術品としての風格を備えており、素晴らしい作家達の姿が浮かび上がってくる。


では次に像の説明をするが、当教会の像は全て木彫の像に塗装又は金箔を施したものである。像以外のあちこちの飾り彫りにも着目して頂きたい。中央の十字架像と祭壇上部左側の天使像については、後に詳しく説明する。




      


  祭壇上部右端の像は、フランシスコザビエルがインド人の子供に洗礼を授けている様子である。
もう60年以上昔になるが、聖フランシスコ・ザビエルの腕(確かガラスに封入されていたと思う)が日本を訪れ各地を廻ったことがあった。この教会にも訪問頂いたが、この像を見て腕はどう感じただろうか。現在はこのフランシスコ・ザビエルが日本のカトリック教会の守護聖人となっている。

 祭壇最下部中央のあるのは、聖体を格納しておくための物入れであり、教会用語では聖櫃(せいひつ タベルナクルム)と呼ばれている。モーセ時代以降の持ち運び可能な聖所(幕屋)が起源となっているため、上部には天蓋を象徴した屋根が付いている。

 十字架斜め左下の像はイエスがコルトナのマルガリタというフランシスコ会の女性にその愛を掲示するところである。彼女は祈りと節制と、貧しい人々や病人の看護に献身的に尽くし、1728年にベネディクト13世によって聖人に加えられた。
 十字架斜め右下の像はイエスが聖ペトロに天の鍵を授けているところである。これによって、聖ペトロが教会の頭となったとされている。




   





 聖櫃左のレリーフ(下に拡大図)は、アブラハムが自分の一人子を神に捧げようとしている場面である。(創世記22章) 火を焚き、子供の両手を縛り、手にした刃で今まさに殺めんとした時、すっと天使が現れて、代わりに藪に絡みついている子羊を生け贄とするよう諭している。これは、アブラハムの神への強い畏敬の念を表しているが、同時にひとり子を殺す父親の不憫さに同情した神の愛をも表している。 そして、将来的には、人間のためにひとり子イエスを捧げる神の愛をも暗示している。

 聖櫃右のレリーフ(下に拡大図)は、はじめて唯一の神を信じたアブラハムの生活での一場面である。右にいるアブラハムを祝福しているのは、神の祭司メルキセデクである。この祭司が捧げているのはパンと葡萄酒であるが、最後の晩餐でのイエスの捧げ物と符合している。(創世記14章17〜18節)



   





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  マリアが悲しみ・慈しみの眼差しでキリストを見上げているところにも着目して欲しい。最愛の我が子を失った母親の気持ちはどんなに切ないことだろう。しかもこのようなむごい死に方で。

 この出来事があまりにドラマッチックであった事から、この状況を歌った詩「スターバト・マーテル・ドロローサ」(悲しみの聖母はたちつくして)が13世紀頃作られ、それに沢山の作曲家が曲を付けた。古くはジョスカン・デ・プレが有名であるが、ドヴォルザークの「スターバト・マーテル」は切々たる雰囲気に満ちており名曲である。

 「出来る事ならこの杯を私から取り除いて下さい・・」と苦しみに呻吟したイエスであったが、今は総てが終わったのだ。すっかり落ち窪んだ眼窩が、この一日イエスに負わせられた苦痛の激しさと、それから解放された安堵感を物語っている。


 イエスの身体・表情と共に、説得力があって感動させられるのは、マリアの表情である。このままでも実に素晴らしいが、下の拡大写真を見てほしい。マリアの瞼が涙で赤く腫れているのだ。これを見ていると、作者がマリアに感情移入して制作しているようにさえ思われてくる。まさに、イエス像・ミカエル像と共に一級の作品である。

普段は聖堂は薄暗い上に、近寄れないため、イエス・マリア・聖ミカエル像の表情を細かく観察できるのは、このHP上においてのみである。

             

             


         





  祭壇上部左側の天使像は大天使聖ミカエルである。その名の意味するところは「神のごときものは誰か」という意味である。フランシスコ・ザビエルは日本をミカエルの保護のもとにおいたが、それは日本に入った日が聖ミカエルの祝い日だったので、という説があるがはっきりしない。

 ミカエルの像も秀逸である。その下に豊かな肉付きを感じさせる衣のひだは実にリアルである上に、顔の表情はこの様な像にありがちな類型化に陥る事なく、まるでモデルを前にして制作したかのような雰囲気をたたえている。

想像するに、教皇直々の発注であった事から、制作した工房では、細心の心遣いで作業したのだろう。


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  上の鍵が付いた容器が「聖櫃」(せいひつ)と呼ばれる、御聖体を格納するところである。レリーフの模様は、長い基督教の歴史の中で伝統となった文様である。
羊は人間のために犠牲となったイエスを、葡萄は最後の晩餐でイエスが葡萄酒を指して「これは我が血なり」と言ったことからイエスの血や身体を、鷲は神の眼差しや福音書記者ヨハネを象徴している。
鍵が付いていて、原則として神父しか触れることは出来なかったが、最近は特別な信者がここを開けて聖体を取り出すことが認められるようになった。(集会祭儀という神父不在の時の儀式等で)



                           
       
       






  
   
    

                           フランシスコ・ザビエルとインド少年




  フランシスコ・ザビエルとインド少年の像も均整の取れた良い像である。後に述べるが、ザビエルの衣装のレース飾りは木彫とは思えない細かな仕事である。
また、インド少年は、しっかりした筋肉の様子から肉体労働に従事しているのだろう。少年の真摯な表情も心に響く。この少年がまとっている腰布があまりにリアルなので、筆者が幼かった頃こっそりと触ってみた事があるが、ごつごつとした木の手触りに驚いた事があった。


ともかく、聖堂内部は何処にも手を抜いた仕事が見つからない事に感嘆させられるばかりだ。手を抜いた物があるとしたら、それは我々最近の信者が付加した物だろう。



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函館のカトリック 改定


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