第5代教会 (1923〜) 1923年(大正12年)完成、1924年献堂。 焼け残っていた壁やステンドグラスを再利用して、木田保造(当時、鉄筋コンクリート建築で数々の成果を 上げていた建築家)の手で完成。鐘楼も付加され、更に2年後には司祭館も付け加えられた。 焼け残りを元に、木田保造が設計図を引いたと思われるが、はっきりしない。当時の設計図と思しきものが、 近発見されたが、古写真アーカイブス4に載せてある。関心ある方はご覧下さい。 聖堂再建のために、72歳のベルリオーズ師はアメリカに渡り15か月にわたって募金旅行を行った。その間、 重篤な病に見舞われたこともあったという。この時の病が後に師の体を蝕んだ。 2度にわたる聖堂建設の 労に感謝してか、時の教皇ベネディクト15世が、祭壇他一式を贈ってくれた。このような事は極めて異例だ そうだ(シュガレ神父談) この時のプレゼントは当教会の宝であり、今迄あまり注目されていなかったが、その芸術性の高さは もっと評価されてもいいだろう。当HPの解説を読む事をお勧めする。 完成直前の現在の聖堂 嘗て上記の写真が見つかった時、皆、首を傾げた。それは小聖堂の上にやぐらが組んであるからだ。 これは一体何だろう? ひょっとして鐘楼だろうか? しかし、すぐ側に立派な鐘楼があるではないか、 小聖堂の屋根は一体どうしたのだ? しばらくの間、疑問であったが、司祭館に残されていた、「日本カトリック教会再建と函館カトリック教会 その関連事業の年表」(函館カトリック教会設立100周年を記念して)と題する大きなA1サイズの年表を 発見し、そこに「1921年4月の大火に外壁のみ残して全焼した。後、香部屋を修理して使う。後、香部屋 屋根上に鐘をつった」と言う文章を発見した。この年表を書いたのは今田正美さんで、1958.5.30の記録 である。これで謎が解けた。今田正美さんに感謝したい。 これから、この写真は聖堂建設中の1922年頃に撮られたことが分かった。聖堂は外観は完成しているが、 内装はまだなのかもしれない。この櫓はこの後間もなくして取り壊されたことであろう。建設中に使用した 仮聖堂であるから、僅かな期間しか存在しなかった貴重な写真である。 完成した第5代教会 上記は大正13年(1924)9月1日の函館毎日新聞の記事である。 現在の聖堂の建立は1923.12.9、落成式は1924.6.8、この鐘の撞鐘式は1924.8.31、ついでに 司祭館の建立は1925.10(木田保造)n 実は完成直後の全体写真はついに見つからず、この新聞写真が1年後ではあるが、もっとも直近 のものであった。 ※上記では設立当初の写真は入手出来なかったと述べているが、本日2017.2.19司祭館屋根裏より発見 ステンドグラスがまだ綺麗である。 これもまだステンドクラスがきれいだ 聖堂の内部写真 完成間もなくの写真 この写真は聖堂完成直後のものであろう。というのは、祭壇奥のステンドグラスが大変に明るいからである。つまり、 向こうにある小聖堂(香部屋)修理にまだ着工していないので小聖堂の2階部分が無く、邪魔されずに明るく日の光が 入っているのだろう。 この写真から分かる注意点は次のような事だ。 ・畳敷きである事。 ・説教台が右の壁に付けて設置されている。説教台の比較的大きな写真はこれが唯一である。 ・聖体拝領台があり、中央部が開閉される。 ・聖体拝領台には左右にレリーフが埋めてある。 ・ベールを被った女性は左席に多いが、被っていない者も女性と思われる。右は全て男性だ。男女分かれていたのだ ろうか? ・ HOME 完成してから27年後の写真 正面のバラ窓3つの下がコンクリートで塗り固められているが、それ以前は短冊状のガラスが沢山入っていた。 (上の写真) アルバムから年号が入った2枚の写真が見つかったが、これから判断すると昭和23年から昭和30年までの間に ガラスを撤去してコンクリートで塗り固めたようだ。ガラスに随分ひび割れがあったり、トタンで塞いだりしている事 から美観上そうしたのかもしれない。 しかし、教会史を見ると、1950年島田神父の時に聖堂内部改装とあるので、その時に行ったとも考えられる。この 内部改装では、楽廊を2階に作った事と、畳敷きを椅子式に替えたことである。進駐軍であるアメリカ兵たちが沢山 来るようになり手狭になった事や、椅子生活が日本人にも浸透してきためであろう。コンクリートで塗り固められる 以前の全体像の写真はついに見つからなかった。 昔の楽廊 高さは2m位であった。並んでいる女学生は聖保禄女学校(後の白百合学園)の合唱部生徒達 ガラス部分はもう塞いであるようにもみえる。中央は酒井先生である。 この後、この楽廊はずっと高い位置に写された。(写真参照) |
日曜のミサに参加したアメリカ兵たちと 当時のルンペンストーブが懐かしい |
説教台が右前方に移されている。 煙突がちょっと痛々しい。当時は信者数も多く日曜日には4回ぐらい ミサがあった。 子供のミサというのもあって、それはたしか8時半からだった。 1960年頃の聖堂内部の写真 説教台が左前方に移されている。 跪く台と椅子がくっついたものが整然と並んでいるが、堅木で作られた立派なものだ。 最近のミサの様子。聖体拝領台は撤去されて、式は神父がこちらを向く対面式となった。説教台も使われていない。 ベールを被っていない女性も散見される。 HOME ページトップへ |