年表で見る当時の函館を取り巻く情勢と伝道


     (後半は主に元町教会百五十年誌を参考にさせていただきました。感謝)



1793年 ロシア使節団来函(ラックスマン船長エカテリーナ号)
               (ロシアのシベリア征服が極東に至り食料供給地が欲しかったため)
         (根室で大黒屋光太夫を日本に引き渡す)
1796年 イギリス船来函  翌年にも来函
               (ブロートン船長函館をアゴダディと記した初めての外国人)
1811年 ロシア軍艦ディアナ号の船長ゴロブニン捕らえられ
         国後→函館→松前と移動させられる
1812年  高田屋嘉兵衛ロシア軍艦ディアナ号に連行される。
1813年 高田屋嘉兵衛の尽力でゴロブニン一行は解放され、リコルド船長に渡される。
1854年 ペリー提督により、日米和親条約(神奈川条約)調印
         (下田・函館の開港 船への食料水石炭などの供給)
         ペリー提督下調べのため函館に入港(三月)
        この際の記録が帰国後出版され、日本では「日本遠征記」と呼ばれている。当画廊で展示中
            日英和親条約(イギリス船に長崎と函館を開き修理や水・食糧を補給)
1855年 日露和親条約調印(ロシアに下田・函館を開港)
                 (プチャーチン提督、通訳ゴシケービッチ、函館に領事館を置く)
                その後の修正で、ロシアは資産を所有し、
        教会を建てる自由が与えられる
1858年 日米修好通商条約批准(下田・函館に加えて、横浜・長崎・新潟・神戸が開港、六港での自由貿易・居住権
                                                            ・治外法権認める)
       露・英・蘭・仏とも調印 (外国人の宗教の自由も)
1858年 ゴシケービッチ初代ロシア領事として来函
        (実行寺に滞在。宣教師・言語学者・博物学者・アマチュア写真家で大変に魅力的な人柄。函館奉行の役人
         から尊敬される。彼の領事館は西洋の学問の中心地となる。また、領事館付きの医師を通して西洋医学を紹介。
         無料で市民の治療に当たる。写真の技術を日本人に教える。今回古い写真を沢山展示できたのも彼のお陰か)
1859年  ホチソン初代イギリス領事として来函
        (彼は「この函館は二、三年の間に人口が急に伸び二、三千人から二万四千人になった」と書いている)

1859年 ●メルメ・ド・カション神父来函  小聖堂建設す
         (メルメ師は日本語が上手なうえ、親切で学問への造詣も深かったため、奉行達から絶大な信頼を受けた。)
1859年 ロシア正教の小礼拝堂建設される。(バシリ・マホフ司祭)
1860年 ロシア病院建設される。大勢の患者訪れる。
       ●メルメ神父フランス語学校開校・施薬院も始める
             仏英和辞典完成、アイヌ語辞典編集
1861年 函館奉行、函館に洋学所と呼ばれる外国語学校作る。
        文久元年  ロシア正教の修道士ニコライ来函・聖堂建設
        メルメ神父暗殺の危機に遭う
1863年 メルメ神父函館を去る(函館は神父不在となる)
1865年 隠れキリシタン発見(長崎)  

1867年 ●ムニクー神父・アルムブリュスター神父来函
        慶応三年  司祭館(小聖堂)建設する。(フランス館と呼ばれた)

1868年  慶応四年アルムブリュスター神父により、函館で第一号の洗礼が行われる。(行商人善兵衛)
        明治元年 エヴラール神父助任司祭として来函
         箱舘戦争始まる
        キリシタンへの弾圧が再開される。
1869年   箱舘戦争終結  廃墟と化し布教は悲観的状態
1870年  プレッシ主任司祭となる

1873年 キリシタン禁制高札撤去される(キリスト教解禁)
          明治六年   プレッシ神父三十三名に授洗
1875年 ジャン・マラン神父主任司祭に
       (東北・北海道で信者数は千二百三十五人に)
1876年 マラン神父による授洗者は百三名に
              ピウス六世の回勅により日本代牧区は南と北緯代牧区(琵琶湖以北総て)
              に分割。オズーフ師が北緯代牧区長に。後に司教座は横浜から築地に移転
1877年 ●マラン神父大聖堂建立(現在地、司祭館は残す)
1878年 ●シャルトル聖パウロ会より三人の修道女来函
        明治11年 2週間後には無料の施療院開く。膏薬が評判に授産所・孤児院も開設(施療院は後に博愛病院と改称)
1879年   函館教区で3821人の信者数(外国人が見た函館・プルチョワ)
          明治一二年  大火でムニクー神父が建てた司祭館焼失
        修道女達は両親を失った孤児の収容に努める
1882年 フォリー神父函館教区の巡回布教師となる。
               フォリー神父巡回した各地で植物を採集して標本を作る。植物学で功績
1884年 ベルリオーズ神父主任司祭に冷害で大凶作窮民救済にあた
1886年 ○修道女達により、私立聖保禄学校開校
        明治一九年  上記の写真から伺われるように大変に立派な建物。 八幡坂を横切って建っていた。32間×6間。
         函館で天然痘・コレラ発生
1887年 大火(明治二十年)
1889年 大日本帝国憲法発布。信教の自由の幸いを全教会で喜ぶ
1890年  現在地に東本願寺建立(明治二十三年)
1891年 ベルリオーズ師、司教に叙階。函館の信徒数は三百七十六人
              シャルトル聖パウロ会、日本朝鮮を一管区とし本部を函館に置く
1894年 日清戦争勝利のため毎朝ミサに参加し聖母の祭壇に灯をともす(函館カトリック教会では)
1897年 ●フランスブリュクベック修道院からプーリエ来函し、当別にトラピスト修道院創立する。
1898年 ●フランスシトー会ウベクシー修道院から八名の修道女来函し上湯の川に修道院建てる
         ○修道女達により、私立元町女子尋常高等小学校設立
1900年 ●北日本最初の邦人司祭誕生(新谷雄三郎師、ベルリオーズ司教により叙階)
1901年 ●ベルリオーズ司教、亀田村に民家を購入し亀田教会設立(現宮前町教会前身)
           ●ベルリオーズ司教、仙台に予備神学校創設。
1903年  当別トラピスト修道院焼失  (〇五年再建)
1904年 傷病兵の見舞い、慰問品集め等の奉仕活動する
1905年 シャンボン師主任司祭に
       日本への宣教をパリ外国宣教会の独占とする状態が問題視されピオ10世の使者来日 
                                           後のイエズス会派遣に繋がる
1907年 函館大火により、元町教会聖堂、司祭館等一切焼失シャルトル聖パウロ会関連の校舎・修道院等の施設も焼失 (明治40年)
1908年 元町教会の仮聖堂建つ。
1910年 ●元町カトリック司教座聖堂建立(明治四十三年)
             私立聖保禄女学校新校舎落成


1914年 シャンボン師第一次世界大戦勃発で招集され本国に帰る。主任司祭代行で早坂久之助師着任
1915年 アンチェン神父主任司祭に
1917年 亀田教会主任司祭ウット神父招集され帰国
        函館毎日新聞は招魂社参拝に関してベルリオーズ司教を批判する。詳しくは別紙
1921年  函館大火で元町教会、司祭館、聖パウロ会修道院聖保禄女学校、博愛医院類焼  (大正十年)
              教皇ベネディクト十五世より、聖堂再建のための資金援助があった。                        
              聖保禄女学校煉瓦二階建て校舎で授業再開
1922年  七十二歳のベルリオーズ司教はアメリカへ募金旅行  (六月初めより翌年八月迄)
1923年 関東大震災(九月一日)
            ●十二月函館司教座聖堂、元町教会建立(大正十二年)
             ベネディクト十五世より、祭壇、十字架の道行き、等寄贈される
1925年 鉄筋コンクリート二階建ての司祭館建つ
1928年 エルヴェ神父主任司祭に
1931年 函館教区はドミニコ会カナダ管区に委託され
              ベルナルド・タルト師が主任司祭に
1932年  プロテスタント・カトリックの女性信徒合同による「世界祈祷日」が日本で初めて行われる。
1933年 シュルプレナン師が主任司祭に
1934年 大火発生(昭和九年)類焼免れる
1935年 島田実神父主任司祭に
1936年 函館司教区は仙台司教区と改称。司教座は仙台へ。
           ド・ラ・サール会の学校建設出願不許可
1937年 日中戦争始まる。.
1940年 宮前町教会のフールニエ神父警察にスパイ容疑で逮捕される
1941年 宗教団体法に基づき日本天主公教教団となる。
              宮前町教会のラポルト神父、警察に適性国人として軟禁される
1943年 十二月、収容所に入れられていた約五十名の外国人捕虜のため主任司祭の小野忠亮神父は収容所でミサを挙げる。
        捕虜の信徒達は酒井武雄さんの指揮で聖歌を歌う。 
1944年 札幌刑務所に入れられていた、フールニエ神父、カナダへ強制送還 
              四十五歳未満の司祭・修道士は勤労動員の対象となる。トラピスト修道院でも修道士十一名が招集
1945年 函館空襲 
              太平洋戦争終結
1945年 島田実神父、再度主任司祭に 
1946年 アメリカよりカトリック教会援助物資到着
              日本国憲法発布
1948年 ●聖ウルスラ修道会カナダ・リムスキーより四名の宣教女来函し、青柳町に修道院開設
1949年 日本における「カトリック青年労働者連盟」発足
              聖保禄会経営の育児部が白百合園乳児部となる
              フランシスコザビエル渡来四百年祭で聖腕を函館に迎え元町教会で荘厳ミサを行う。
1950年 島田神父、テノール歌手の奥田良三の演奏会を行い、その収益金と進駐軍からの援助等で畳敷きから椅子式に変更。
              元町教会聖堂に二階式の楽廊を設置。オルガン設置
   
          元町教会に聖ヴィンセンチオ・ア・パウロ会協議会(VAP)結成
1951年 深沢豊治神父主任司祭に    
              元町教会レジオマリエ発足
1952年 函館地区は仙台教区から離れ、札幌代牧区に属す。 札幌代牧区は札幌司教区に昇格
1953年 函館地区はパリ外国宣教会に戻り、エルヴェ師、ウット師、モージャンル師来函。ウット師主任司祭。
1954年  元町教会信者数七四二名。
              アインシャルト神父のもと函館最初の「カトリック青年労働者連盟JOC(男性)。JOCF(女性)」結成
1955年 病者への布教を目的とする「グロリア会」発足

1956年 アインシャルト神父主任司祭兼地区長に
        元町教会において、「アクチオ・マリエ」結成。 (この会は信徒使徒職の活動組織の意)
             アインシャルト神父困窮する家庭のため、善意の市民信徒の協力を得て、住宅を建て、市に寄贈する。  
         ●八雲教会創立される。主任司祭グロード神父。
1957年 ●江差教会(巡回)開設 (アインシャルト神父司牧)
1958年 新教皇ヨハネス二十三世登位。公会議招集の意向。
1959年 ●千軒岳巡礼登山、殉教者ミサを挙行(今後毎夏に)
              函館宣教百年祭荘厳ミサが行われる。
1960年 東京大司教土井辰雄師が日本人初の枢機卿に。
              第一回ホーム集会開催。
            ●元町教会聖ヴィンセンチオ・ア・パウロ会は日の出町に宗教法人「カトリック少年の家」を建設し、市に寄贈。
1961年 ●元町教会付属「元町白百合幼稚園」開設
1962年 グロード神父主任司祭兼地区長に
              エルヴェ神父の司祭叙階六十五年祝賀会
      10月11日第二回バチカン公会議開催
              江差教会移転、民家を買い取り教会にリフォーム
1963年 教皇ヨハネス二十三世逝去、新教皇パウロ六世に。            第一回愛徳バザー
              聖チェチリア混成合唱団結成
1964年  「カトリック少年の家」が社会法人「函館カトリック社会福祉協会」による社会福祉法人として認可
1965年 第二回バチカン公会議閉会  
              公会議による諸典礼の形式変更に基づき、ミサは日本語、対面ミサとなる。
1968年  函館地区信徒使徒職大会開催
        元町教会マリア会館落成 
1970年 市民クリスマスの夕べをプロテスタント・カトリック合同で行う  
1971年 グロード神父市民を対象にカトリック文化活動開始    劇団「アレルヤ」結成、宗教劇演ずる。
         信徒相互の助け合いを計り共助組合発足
         ジュニア・チェチリア合唱団結成
1972年 鐘楼修築工事、母子部屋増築工事。尖塔に雄鳥設置 1973年 「少年の家」に「うみの星保育園」を併設。
              聖ヴィンセンチオ・ア・パウロ会全国総会が元町教会中心に行われる。
              エルヴェ神父逝去(九十九歳)
1974年 ウインダル神父地区長となる
              1976年 グロード神父、郊外に土地を購入し、特別養護老人ホーム建設計画を発表し、募金開始
1977年 リンブール神父主任司祭に
1990年 ウィンダル師主任司祭に
2005年 ロー師主任司祭に
2014年 今田師主任司祭に




函館のカトリック 改定  元町画廊提供


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