初代教会(1859〜1863) メルメ・カション師が最初に建てた聖堂の場所と思われる称名寺を示す地図、その下が建物見取り図、更に下が師によ る幕府への建築伺い書である。メルメ師の自筆である。 1859年パリ外国宣教会本部に送ったもので、グロード神父が発見した。 当教会ではこれを1代目聖堂として数えているが、作られた場所はこの古地図にあるように、称名寺境内の「メナールト」 とある場所かそれとも他の場所かはいまだ不明である。 この古地図や書類から、称名寺境内だったという説が有力であるが、一部の学者は寺の境内に教会を建てるのはおかし な話であるし、メルメ師は本部に「とっても良い土地を借りる事が出来た。そこは他の領事たちが羨むような場所だ」と書き 送っている事からすると、境内説は疑問だとしている。 下記のカション師の申請書(北海道立文書館蔵)にある「小さき家」がこの聖堂の見取り図のものなら、やはり称名寺境内 と言うことになるのだろうがはっきりしていない。 称名寺境内にメナールトとあるのがカション師の住んでいた場所 |
第2代教会1867〜1879 メルメ・カション師は1863年函館を去るが、 1867年来函したピエール・ムニクー師が直ぐに建設した司祭館。聖堂も兼ねていて、当教会ではこれを第2代としている。この建物は1879年(明治12年)の大火で焼失したが、その後すぐにほぼ同じ形態で再建されたようだ。再建後は屋根材が変わり、山側に小窓が追加されている。 下町から函館山を見上げた写真 中央上方にハリストス正教会 右上方にムニクー師の聖堂が見える 民家の家々の屋根には柾板が飛ばぬように石が並べてある。 |
第3代教会1877〜1907(明治40年) 下記が明治8年に着任したマラン神父により、明治10年に完成した教会である。 上に明治10年撮影とされる写真を載せたが、正面の作りが異なる。上記は建設中とも考えられるが、屋根には十字架も付いているし、正面には窓も見られる。これはどう考えたら良いのだろうか? 建設中であっても聖堂として使用していて最小限の意匠を付け加えたのか、あるいは、完成直後不満を感じ設計変更したのか、今となっては分からない。 筆者は図書館で右下の写真を発見したが、これはこの聖堂の祭壇と判明した。山側から見た外観の円弧状に膨らんだところがその部分である。 左の聖堂の祭壇 この建物とこれに付属する全ての施設は明治40年の大火で焼失してしまった。ムニクー師が建てた聖堂(後司祭館になり、1879焼けたが再建)も、この時焼失した。 ※1879年の大火ではこの聖堂は焼失を免れた。 |
第4代教会 (1910〜1921) 1910年(明治43年)完成 明治40年、先代の教会を大火で焼失したが、 明治24年に函館教区(1891年北海道・東北をまとめて函館教区が設立された)の司教となっていたベルリオーズ師は、欧米を回って寄付金を集め、ゴシック様式・煉瓦造りの荘厳な聖堂を完成させた。 師は作曲家ベルリオーズの従姉妹で、小柄であるが、天才的な語学力と強い意志に恵まれ、立派に幾多の困難に立ち向かった。 ベルリオーズ師 上記写真は小聖堂を建築しているところであるが、何故二つも聖堂が必要だったのだろう? 多分、これは地区のためのミサ用と思われる。大聖堂は函館教区(東北・北海道全体)のために使われたのだろう。 木の足場や、職人さんの服装が興味深い。 下はこの頃作られたルルドの写真だ。出来たてで木も生えておらず、てっぺんに盆栽や鉢植えなどを等を並べているあたりが微笑ましい。 何処も土がむき出して、殺伐とした感じであるが、祈るための跪く台だけは置いてあったようだ。現在は緑豊かで心和む場である。 第4代教会 火災後の様子1921年 しかし、師が完成させた聖堂は、大正10年の大火で、他の教会付属の建築物と共に焼失してしまう。 下に火災直後に撮られた写真が見られるが、屋根・柱は焼けてしまっているが、壁やステンドグラスは残っている。 更に下の写真で奥の方に白い建物があるが、これは小聖堂である。こちらもやはり屋根が焼け落ちている。 日本建築学会による「函館大火調査書」では、この聖堂が焼けた理由を色々推察しているが、煉瓦壁に瓦屋根であったのに何故か? ・・・「判断に苦しむ次第なり」と述べている。 |