元町教会の鐘の歴史

◯1923(大正12年)9月1日 元町 教会の鐘のために奔走されたドノワイ神父 出張先の横浜の聖堂で 圧死された(関東大震災で)。
◯1924(大正13年)6月8日教会の落成式行われた。
8月27日すでに発注済みだった鐘がフランス より 到着し
8月31日にドノワイ神父記念鐘としてベルリオーズ司教(仙台より来函)の司式で撞鐘式が行われた。鐘の重さは約1トンあり音は2里四方に響き渡った。(当時の 函館毎日新聞9/1で報道された)

         


※150年誌には「べ司教は鐘楼に取り付けられた鐘の撞鐘式を行う」とあるが高齢のべ師が高い所に登れたかは疑問。また、「鐘楼の内側の大理石にドノワイ神父に関する短い文が刻まれている」という記述もある。

◯1925年司祭館完成(木田保造)

○1929(昭和4年)亀田教会(昭和6年より宮前町教会と呼ぶ)の仮鐘楼に鐘が設置された。これはモージャンル師が奔走して元町教会と同じ工房(アルザスのファルニエ社)に発注したもの。これは亀田教会のために鋳造されたものでKAMEDA1928年造の文字が刻印されており、重さは600キロ?ほど。(当別トラピスト修道院と同じ重量)
※以前より亀田聖堂の屋根から突き出た小さな鐘もあったが、お世辞にも良い音ではなかったそう。

○1931(昭和6年)函館教区はカナダのドミニコ会に移管、これに伴いモージャンル師は東京・大阪方面に移動。

○1939年フールニエ神父鐘楼を新築(宮前)

○1945(昭和20年)平塚師が元町教会と宮前町教会両方の主任となる。
宮前町教会の白塗り鐘楼はこの年空襲の激化に伴い、町内警防団の手により撤去され、
鐘は元町で保管

○1946(昭和21年)頃 元町教会の鐘は第二次大戦中に供出し、長らく鐘がない状態であった。
そこで戦後、島田師と平塚師の判断で保管していた旧亀田教会の鐘を元町で使う事になったもよう。(モージャンル師には断っていなかったようです)

○1953(昭和28年)モージャンル師再び宮前町教会の主任となる。
モージャンル師は苦労して宮前町教会のために入手した鐘が元町に行ってしまっている事に大変落胆し、頻繁に返還を求めたそうである。(宮前町教会の「90年のあゆみ」より)

○1957(昭和32年)度重なる要求に屈し、元町教会の深沢師は代りに「オルゴール式」(電気式か?)の鐘をプレゼントし設置された。代りに元町では安心してKAMEDAの鐘を使えるようになった。

○1974(昭和49年)宮前町教会の鐘楼は老朽化が激しくなり、暴風雨で倒壊の危険もあったので、ウィンダル神父の主張で撤去した。(結果として元町で使用していて良かったですね)
                         

  


  


           


                                               








 


 
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   元町教会の吊り鐘の来歴